古代の成城はどんな姿だったか。古代成城人のくらしを考える。石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の様子。

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砧中学校の思い出

私が砧中学校に通っていた当時、校庭には不思議な場所がありました。それは、校庭の隅に柵で囲まれていたところで、いわゆる古墳です。ややこんもりした丘のようになっていたことを覚えている。そこが、この地域を支配していた、古墳時代の首長であることは当時は知りもしませんでした。

私の聞くところによると、学校の体育館が火事で燃えてしまって、そのあと再建するときに、多くの土器などが発掘されたということです。この学校一帯はそんな古代の成城の村があったのではないかと考えるようになりました。

成城の地形(国分寺崖線)

たしかに、砧中学校の横は勾配の激しい坂があり、学校にも階段があって、そこを上がって登校する学生もいました。私はサッカー部の練習でその階段を筋トレのために使ったことを覚えています。相当きつい階段です。そこは、

国分寺崖線」と言われて、野川沿いに崖が連なっているものです。成城から喜多見や狛江方面に行くときはここを下がります。私の友人の一人が喜多見側の方に住んでいて、そこを自転車で下って遊びにいくのでした。

帰りはその坂を上がるのです。そうとうな坂の勾配です。

しかし、そんな崖線があるがゆえに、古代の人々はそこに生活の場を定着させたともいえるのでしょう。湧き水も出たり、豊富な自然に囲まれているからです。

確かに成城周辺は、この豊富な自然がいまだに息づいているのが特徴ではないでしょうか。狩猟や採集にも欠かせなかったかもしれません。それは、旧石器から縄文にかけてでしょうが。

豊富な自然

幼かったころ、この周囲を遊び場にしてたようです。それはカブトムシやカニが取れるからです。朝早くおきて、友人と一緒に撮りに行ったことを今でも鮮明に覚えています。

湧き水も出ていて、そんな場所からはカニを撮って遊んだり、水遊びもしたりしました。そのように考えると、古代の人々も自然と戯れながら、生活していたのではないでしょうか。

成城の古代史

遺跡は「上紙明(かみのしんめい)遺跡」がまずあげられます。ここは「みつ池」周辺を取り囲むようにひろがっているものです。弥生時代にはここで「環濠集落」を形成していたとのことです。

つぎに、「中神明(なかのしんめい)遺跡」があります。ここは国分寺崖線の大地上にあるものです。ちょうど坂を上がった周辺でしょうか。ここには旧石器の道具や竪穴住居と集石(焼き石調理場)が見つかっています。人々がムラと作り共同で生活してたことがわかるそうです。

「不動橋横穴」は古墳時代(1500年~1400年前)のお墓です。面白いのは須恵器や鉄刀(てっとう)そして墓室には壁画が描かれているものがあるのです。「祀り」が行われていることがわかります。

そして最後に、「砧中学校古墳群」です。ここは全部で8基あるそうです。その中で7号墳は全長69メートルある前方後円墳であります。あの河内の前方後円墳がここにもあるということが、不思議でたまりません。すでに、古墳時代にはこの地域と大和朝廷との情報が交換されていたのでしょうか。

しかし、この地域の人々は古墳時代を過ぎて、奈良時代に入ると忽然と姿を消してしまったというのです。どこかに移住したのか、それとも、大きな勢力に統合されていったのでしょうか。

つまり、それ以降はこの成城という地域は人々の生活の痕跡がないというのです。不毛の地となっていたかもしれません。ただ、それゆえに、豊かな自然が残されるようになったともいえるのです。

狛江は渡来系の移住集団か

この奈良時代にかけて、狛江地域から調布にかけて郷や評(こおり)が形成されていったといいます。府中には武蔵国府がおかれます。各地の村が統廃合されるのでしょう。

狛江(こまえ)という名ですが、コマとは駒、高麗という意味にもなるのです。この地域は近畿地方から渡来系の集団が入植した可能性はあるでしょう。

実際、不動橋横穴には須恵器鉄刀(てっとう)そして墓室の壁画が発見されています。それらの技術などを見ると、こういった渡来系の技術がこの地域に入っていたことも考えられます。

今後の発掘がさらなる成城周辺の歴史を明らかにすることと思われ期待したいものです。

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